
1962年生まれ。長崎県出身。
92年、初の劇場公開映画『二十才の微熱』は、劇場記録を塗り替える大ヒット記録。
2作目の『渚のシンドバッド』(95’)は、ロッテルダム国際映画祭グランプリ他、数々の賞に輝いた。
人とのつながりを求めて子供を作ろうとする女性とゲイカップルの姿を描いた3作目『ハッシュ!』(02’)は、第54回カンヌ国際映画祭監督週間に正式招待され、世界69各国以上の国で公開。国内でも、文化庁優秀映画大賞をはじめ数々の賞を受賞。
6年振りの新作となった『ぐるりのこと。』(08’)は、女優・木村多江に数多くの
女優賞を、リリー・フランキーには新人賞をもたらし、その演出力が高く評価された。
7年ぶりの長編となった『恋人たち』(15’)は、第89回キネマ旬報ベスト・テン第1位を獲得したほか、数多くの映画賞に輝いた。
2026年10月15日
「初公開の時、彼女と観て結婚した。年を経てリバイバルでまた妻と観ることができた。最初も感動したが、それ以上に夫婦二人で積み重ねた時間の重みが加わり、より深く染みました。」
今夏の『ハッシュ!』『ぐるりのこと。』二作のリバイバル公開では、このような感想を多く頂いた。
劇場での舞台挨拶の折には、「両親が好きな映画だったので観に来ました」「初公開時に観て、DVDで何回も観て、何度も何度も救われました」と声を震わせる観客の方もいて、こちらも胸が詰まりました。
初めてご覧になった方、長年僕の映画を見続け、支えにしていると言って下さる方から直接声を頂くと、「生きろ、映画を撮れ」と言われているような気がしました。
そんな中、友人で映画監督の成島出が亡くなった。
リバイバル公開で出演者を招いてのプレミアムイベントが7月20日。その模様を伝えたSNSの投稿に成島のイイネがあった。
頻繁に連絡を取り合うことは無かったが、たまに貰うイイネが、お互いの生存確認の様になっていた。
「あ、成島、イイねしてくれてる」と安心してから一か月足らずで訃報が届いた。二度の肺がんの手術を経ていたことは知っていたが。もしかしたら、病床から最後の挨拶のつもりで立ち寄ってくれたのかもしれない。
最初の出会いは1986年度のぴあ・フィルムフェスティバルでの上映会。大阪から上京し、会場の池袋・文芸座へ向かうと、入選した監督たちが一階の喫茶店に屯していた。その中には、平野勝之、園子温、入選からは漏れたが岩井俊二がいた。皆、強い個性を持っていて、今まで触れ合ったことのない人間たちばかりだったが、中でも成島は骨太の作品と強面の風貌も相まって堂々と見えた。
「こういう人が映画監督になるんだろうな」と近寄り難い雰囲気があった。
当時の僕はと言えば、将来、映画監督になるなんて野望もなく、個性などというものとは縁のない人生と思っていたので、こんな個性の塊のような面々と並ぶのがこそばゆく場違いに思えていた。
その後、長谷川和彦監督のところに出入りしてるとか、助監督になり超優秀な助監督として評判になってるとか、成島の近況は耳に入っていた。
僕は、既にデビューしていて、二作目の『渚のシンドバッド』を撮った後だった。ふらっと東宝での試写に成島が来てくれた。正直驚いた。それまで、友達付き合いという付き合いはなかったからだ。
試写の後、飲みに行くと、強面だった印象と違い、長年の友人のような距離感で話し出した。
「お前の映画が、メラメラの東宝マークで始まるんだぜ!」と、僕が東宝というメジャーで作品を撮れたことを僕以上に喜んでいる様だった。
僕が、『シンドバッド』の6人の十代の出演者と、いかに心を通わせて撮影したかを話しているとしゃっくりが出た。その頃の僕は、人と居ると緊張してしゃっくりが出ることが常だった。そんな僕を見て、成島は、「おい、こんな自意識過剰な奴が、子供たちとそんな撮影が出来たなんて素敵じゃないか!」と我が事のように喜んでくれた。
僕は人の好意というものにあらかじめ距離を置くところがある。
ウッディ・アレンの『アニーホール』という映画の冒頭で、主人公に扮するアレンが登場し「僕は自分を入れてくれるクラブには入りたくない」と人生観を語るが、僕もまったくそんなところがある。
そんな僕なので、この時の成島の友情にも半信半疑なところがあったが、今振り返ると、何の裏も表もない真意だったのだなと分かる。
その後、成島も映画監督としてキャリアを重ね、インタビュー等の際には折に触れ、「自分の映画の師は相米慎二。ライバルは橋口亮輔」と繰り返し語っていたそうだ。それを聞いても、あまりぴんとは来てなかった僕だったが。
三年ほど前、共通の知人である映画監督の斎藤久志が他界した際に貰った電話を思い出す。
(詳しくは、本連載『映画監督と言う人生』を参照。)
その時、しつこいくらい電話口で、「映画を撮れ!。俺はお前の映画が観たいんだ」と言ってくれた。
二度の肺がんの手術を経て、現場復帰は果たしてはいたが、自分ではやがて来る死期を意識しての言葉だったろう思う。
そんな成島が、もうイイネしてくれることもない。「映画撮れよ!」と夜中に叱咤激励を聞くこともないんだな。
成島、今までありがとう。