俳優もスタッフも、
だれかれの区別なく
みんなが平等に一本のクギであった。

「一本のクギ」の精神

俳優もスタッフも、だれかれの区別なくみんなが平等に一本のクギであった。
監督の命に従って、空にえがく楼閣は、一本一本のクギにささえられ、作品として完成する。

- 高峰秀子『わたしの渡世日記』-

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追悼 安野光雅先生

「一本のクギを讃える会」代表理事
松山明美

翌年にまさか逝ってしまうとは、松山も私も、そしておそらく高峰自身も考えてもみなかった2009年秋、
「映画の裏方さんたちを表彰する財団を作ろう」と高峰が言い出した。そして「安野先生に理事をお願いしましょう」と。
さらにここが高峰らしいのだが、「お忙しい先生にご面倒をおかけしてはいけないから、お名前だけで結構ですからとお願いしましょう」。
だがその翌年の末、高峰は逝った。だから高峰が裏方さんを表彰することは遂に叶わなかったが、それでも安野先生は1回目からずっと顕彰式に出席してくださった。

高峰は安野先生が大好きだった。心から尊敬していた。
高峰は次のような文章を書いている。

「京都へ美味しいものを食べに行きませんか?」
「いいねぇ。行こう行こう。京都ならちょうどいいや、ボク一足さきに行ってひと仕事 して待ってる。
 三時までには描きあげちゃうから」
約束の日、三時にホテルの部屋へゆくと、安野画伯がションボリと窓の外を眺めていた。
「どうしたんです? お仕事終わりました?」
「それがねぇ、描けなかったの」
「え? 何故です?」
「京都に着いてから気がついたんだけど、スケッチブックや絵の具、忘れてきちゃったのよ。
 だからずーっとここに座ってた」
私は絶句した。どこの世界に画材を持たずに絵を描きにゆく画家がいるだろうか?
安野画伯のお母さんだったらたぶん、こう言うだろう。
「しょうのない子ねぇ、お前は」
でも、私は、なぜかそんな安野先生が好きなのだ。
「天衣無縫」
という言葉は安野画伯のためにある、と、私はおもっている。

『にんげん住所録』より

安野先生も高峰の大ファンでいてくださった。
まだ私が松山と高峰の養女になるずっと前、私は電話で先生とこんな会話をしたことがある。

「高峰さんから聞いたんですけど、昔、帝国ホテルのロビーで、偶然、阿川弘之先生に遭ったそうなんですが、
 その時、阿川先生が思わず『高峰さ~ん』って、抱きついたんですって」私が言うと、 安野先生は電話口で一瞬絶句したあと、憤慨するように言った、
「許せんなぁ!」。
続けて、改めて怒ったように「阿川のやりそうなことだッ」。
私は大笑いして、ついでにもう一つ、高峰と松山が結婚した経緯に触れた、
「松山先生は貧乏な助監督だったにもかかわらず、自分から交際を申し込んだんですよ」。
と、安野先生、今度は大いに驚いて、
「え!? そうなの? 木下監督がお見合いさせたんじゃなく?」
「違いますよ、松山先生が勇気を奮って申し込んだんです」
そこで再び安野先生、
「なんだ、許せんなぁ!」
「先生、許せない人ばかりですね」、私は「許せん」二連発に電話口で爆笑した。
すると先生はかすかに溜息をつくようにつぶやいたのだ、
「そうだったの......じゃ、僕だって映画界にいれば......」
最後はほとんど独り言のようになっていた。

普段の安野先生はまるでクマのプーさんのように飄々として、ホントにこの人が海外で「アンノー」と呼ばれて尊敬されている画伯なのかと思えるほど、威張ることなどとは無縁の自由人だった。
しかし私が「最後の日本人」として先生にインタビューさせていただいた時、最後の言葉をこう締めた。

「どうしてあなたは絵を描くのかと聞かれると、生活のためと答えるが、なぜ絵本を描くのかと聞かれたら、子どものためという模範解答が一番面倒がない。でも振り返るとそうじゃない気がするの。自分のために描いている。クヌースというアメリカの数学者と対談した時、『超数学』というすごい論文を書き上げたばかりの彼が言ったんだ、『私は書かされているような気がする。それはミューズなんだよ』と。僕は腑に落ちたんだよね。自分でない何者かに描かされている。別の言葉で言えば、やむにやまれず衝き動かされているような。ただ描きたくて描いている。好きでやってる。それだけなんですよ」

表現者として天涯の境地に達せられたプロ中のプロに、心より合掌申し上げます。

左より安野光雅氏、松山善三氏、三縄一郎氏、野上照代さん

活動報告

「一本のクギを讃える会」は、
高峰秀子が持ち続けた「一本のクギ」の精神に則り、
映画界において「裏方さん」として貢献した方を
一年にお一方、顕彰しています。

組織概要

一般財団法人「一本のクギを讃える会」の、
組織図と定款を掲載しています。