2016年4月20日

映画賞

 毎年、年末から年頭にかけては、映画賞の発表が相次ぐ。映画関係者が一喜一憂する季節である。
 僕が、デビューして初めて頂いた映画賞は、大阪映画祭での新人監督賞というものだった。中之島のフェスティバルホールだったか?。会場の控え室に恐る恐る入ると、そこは広い座敷。誰もいないなと思い、ふと隅に目をやると、そこに真田広之さんがお一人で座られていた。こちらは、まだ素人同然なので、「あ、真田広之だ!」とどぎまぎしてしまい、こんな無名の人間が挨拶していいものかどうか迷いながら中途半端な頭の下げ方をしたと思う。すると、すると、真田さんは居住まいを正されて深々と僕に頭を下げられた。
「こんな僕にあんなきちっとした挨拶を」と感動しながら申し訳ない気持ちで一杯だった。
たぶん真田さんは、そんなこと覚えてらっしゃらないだろうが、例えば人が不遇にあるときとか、弱い立場にいて困っている時とか、そんな時の助け舟は、受けた方は一生忘れないものだ。
今やハリウッドスターな真田さんだが、その後の活躍を拝見していても、あの時のきちっとした印象と変わらない。
 その授賞式の最後は、受賞者一同が舞台に並んでのフリートークショウになるという演出だった。何の打ち合わせもなく、司会者が、「それでは、どうぞ〜!」と無茶振りすると、僕の左手にいた先輩監督が口を開いた。その監督の映画は、その年の映画賞を賑わせていたのだった。
「橋口くん。あのさ、こういうのは言ったほうがいいから言うんだけど、『二十才の微熱』はダメだね」と。
淀川長治先生のような、愛ある厳しさではなく、単に天狗になったオヤジに先輩風を吹かされたわけだが、当時の僕はただの素人。頭が真っ白になって一言も返せずにいた。客席を見ると、女性が、気まずそうに隣の友人に「かわいそう〜」と言ってるのが口の動きで分かった。
その時、「○○監督の○○(作品名)はつまんなかったなぁ。何であんなことになったんですか?」と助け舟を出してくださった方がいた。金子修介監督である。
僕をディスった監督は、答えに窮して、客席から笑いが起こった。その後のことは、まったく覚えていない。金子監督にもお礼も言えなかった。でも、金子監督の作品を見たり、お名前を拝見するたび、「金子監督、優しかったな」と思い出す。
数年前に金子監督とご一緒する機会があって、あの時のお礼を言おうかなと思ったが、何か気恥ずかしくて最後まで言えなかった。たぶん監督は、覚えていないだろうが、僕の中にはずっと大切な思い出としてある。
そもそも、公の席で先輩風吹かして若い人をいじめても何にもならないし、みっともないので、いい教訓の意味でも忘れないでいる。
 あれから二十数年。大阪映画祭は、大阪シネマフェスティバルと名前を変えて続いていた。今回、『恋人たち』では作品賞と脚本賞をいただいて、その苦い思い出の映画祭へお邪魔してきた。
司会は、浜村淳さん。授賞式は、ほとんど浜村淳ショーで、笑いが絶えることがない。聞けば、御年81歳。驚いたのは、二時間の授賞式の間、ずっと立ちっぱなし、喋りっぱなし。各受賞作映画を全て観て、関係者、共演者などの人名も全てフルネームで頭に入れてトークされる。僕なんか、今聞いた名前も忘れるというのに。「すげぇ〜!」と何度も心の中で叫びながらの授賞式。浜村淳さんと同じ舞台に立つなんて、何ともレアな体験で感激する一方で、かつての自分の若さを思いながら、痛がゆさのある時間になりました。