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池島2020年06月29日

 長崎県民にとって“炭鉱で働く”、“造船所で働く”というのは長らく誇らしいことでした。
「〇〇の娘さんが、今度結婚すっとよ」
「誰と?」
「炭鉱の人よ(造船所の人よ)」
「いやぁ~良かったねぇ。炭鉱の人と結婚すっとね。良かったね~」
小さい頃から、このような大人たちの会話を幾度となく聞いてきました。
 戦後、炭鉱も造船業もどんどん斜陽になっていったとはいえ、喰いっぱぐれのない花形職業に変わりありませんでした。
時代は後にずれますが、僕も炭鉱の島で暮らしたことがあります。長崎には、端島(軍艦島)以外にも炭鉱の島があります。長らく『ねずみ島』と記憶していましたが、調べてみるとどうやら『池島』が正しかったようです。(ねずみ島も実在しました。)
うちの両親は夫婦仲が悪く、ケンカの度に僕は何処かに預けられました。
池島には、炭鉱で働く父の兄家族が居住していました。そこへ、幼稚園の頃に預けられて数か月暮らしました。その時の記憶は何故か鮮明に覚えています。
1967年、昭和42年。僕が5歳の時です。まず何棟も続く真っ白い団地にまず驚きました。叔父さんの家には小学校のお兄ちゃんが二人いました。そのお兄ちゃんが、イチゴ味の歯磨きを使っていたのも驚きでした。
まるで小津映画で描かれたような憧れの団地生活に飛び込んだような感覚でしょうか。
叔父さんは、炭鉱から戻ると、ドッカとお茶の間に座って新聞を広げてビールを飲みます。「俺が一家の大黒柱だぞ!」と言わんばかりにそれはそれは堂々としていました。
日曜日、夜の7時には『ウルトラセブン』の本放送がカラーで始まりました。
お兄ちゃん二人と僕は、「ウルトラセブンば見せて!」と懇願しましたが、叔父さんはナイター中継です。もちろん子供たちにチャンネル権はありません。お父さんは絶対です。
僕たち3人は、団地の屋上に上りました。何とも薄紫の夕暮れの中、柵にもたれてしゅんとしていると、向かいの団地のお茶の間が見えました。
そこには、小さく見えるテレビの画面の中に、赤い人がちらちら動いていました。ウルトラセブン、その人でした。
「うわ~、ウルトラセブンのやりよる!」
「よかね~、ウルトラセブンば見たかね~」
と僕たちは口々に叫びました。
見ると、他の棟でもお茶の間にテレビが点いていて、小さな点のような赤いセブンがいっぱい映っていました。
何とも言えない夕暮れの空気と、ウルトラセブンが見れない悔しさと、3人で笑い合った楽しさを鮮明に覚えています。
当時、カラーテレビの普及率は25%足らず。まだまだ高級品であったその時代に、赤いウルトラセブンが溢れていました。斜陽へ向かっていたとはいえ、炭鉱は実入りの多い商売であり、そこで働く者にとっても誇りであったのだと思います。
そして、豊かで安心できる環境だったからこそ、僕も預けられたのでしょう。
ですから、端島(軍艦島)での戦時労働者の問題が浮上した時は、何が降って沸いたのか最初は全くぴんときませんでした。県民が体現してきた時間の中に、封印しなければならないような“忌まわしい汚れ”というものを感じたことは一切無かったからです。
 ある番組で評論家の小川栄太郎氏が、「私たちは江戸時代には生きてはいない。しかし、藤沢周平氏の小説を読むと、ああ、確かに当時の人はこのように感じていただろうということが分かる。民族が持っている記憶として、それが分かるのだ」という主旨のことを述べておられた。
 科学的ではありませんが、実はとても本質的なことだと思います。このような民族のアイデンティティに触れてきて惑わせるような卑劣な攻撃に日本はずっと晒されてきました。
僕は、人々の歴史、記憶、誇りを傷つけ利用しようとすることに強い憤りを憶えます。

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